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私の生まれは北海道雨竜郡秩父別町と言う小さな町で、深川市の隣になります。家は稲作中心の農業を営んでおりました。深川市周辺の北空知地方は北海道の中でも米どころとして知られており、稲作が大変盛んな土地柄です。私の周りの家は皆、農家で、スーツを着ているのは学校の先生か役場で働いている人ぐらいで、隣の家までが800メートルぐらいあるような場所でした。
農業というと、ほのぼの、のんびりというイメージがあるかもしれませんが、決してそんなことはなくて、とっても厳しい環境でした。深川市周辺は年に数回-25度を記録することもあるぐらい寒く、ひな鳥が巣から寒さでおっこってくるようなところでした。農繁期は毎朝6:00から仕事を始め、終わるのは夜の10:00、11:00でした。父は朝の3:00までトラクターを運転していることもありました。それでも、家は貧しかったです。
小学校に入ったときに、オルガンを習いたくて、「オルガンを買ってー」とお願いしても、買ってもらえるはずもありませんでした。しかも、農家ですから、おじいちゃん・おばあちゃん、父・母、私と弟の6人で生活していました。農家の厳しい労働、厳しい経済状況もあって、家庭の中はいつもぴりぴりした雰囲気でした。
そんな中で、父の弟に当たる私の叔父は札幌の西区で整形外科医院を開業していますが、私がそんなぴりぴりした家庭で育っている頃に、家に来るたびに当時はご馳走のケーキを持ってくるものですから、そんな子供にとってなれるものならなりたい存在でした。でも、それはプロ野球選手になりたいというぐらいの夢でしかありませんでした。それは「そんなもの、なれるわけがない」と思っている程度でした。
当時の私の夢はそのまま眠りにつき、私が高校2年の秋に目覚めることとなりました。進路を理科系か文科系に進むかを決めかねていたところ、祖父に「お前、将来、どうするんだ?」と聞かれたときに私が「学校の先生にでもなろうかな」と答えたところ、そこにたまたま家に来ていた叔父が私のところにやってきて「おまえ、学校の先生になるのか?学校の先生になるんだったら、お父さんの後を継いだほうが良いんじゃないか?」と言われました。私は「あの労働も嫌だし、ここにはいたくない」と思っていたところに、叔父から「ところで、医学部か歯学部に行く気は無いのか?」と言われたのです。しかし、当時の自分の学力からすると、とてもじゃないけど、医学部も歯学部もいけない状況でした。
叔父には「自分には無理です」と答えました。「できれば、国公立に行くのが良いけど、岩手医科大学ぐらいなら篠田の家でも行かせてくれると思うよ。今すぐには、無理かもしれないけど、1年ぐらい札幌に出てきて、勉強すれば何とかなると思うよ」とこの時、叔父に言われたのが私の人生の転機でした。
これがなければ、銀行員かJTBのスイス駐在員になってたかもしれません。妻に言わせれば、「あなたにはそんなの絶対、向いてないわよ」と言われましたが・・・。 この後、札幌で1年間、浪人した後、岩手医科大学に合格し、入学することができました。この時、「ここで合格しないと、また、あの町に戻らないといけない!それは絶対に嫌だ!」という思いで必死でした。
大学に入ると、周りは裕福な人ばかりで、農家の出の人間は私を含めて2人しかいませんでした。私の家では、私を私立の医科大学に行かせるために、父が冬場にタクシーの運転手、母が水産加工場に行ってまで、学費を出してくれました。私には、弟がいるのですが、兄弟2人とも、医科大学に行かせるほど経済的余裕はなく、弟を犠牲にしたと悩んだこともありました。
そんな両親のお陰で、岩手医科大学の6年間を無事、過ごすことができ、卒業することになりました。私は卒業後も、開業医に勤めるのではなく、大学に残ることは最初から決めてました。それは叔父に「大学卒業して、すぐに開業医に勤めるよりは、医局に残って、勉強したほうがためになるよ」と言われたからでした。
ですから、大学6年の時点では医局に残って、将来、開業するための技術を身につけることを考えていました。その時、2つの選択肢がありました。1つは当時、岩手医科大学にいた入れ歯の権威の先生に習って、深川の田舎で開業するという選択肢でした。しかし、深川には戻りたくないという気持ちから、これは止めることにしました。
もう1つは都会で開業したいという憧れ、願望でした。それが実現できるのが矯正でした。そして、私は矯正を学ぶために、北海道大学の歯科矯正学講座へと行くことになりました。
しかし、北海道大学の歯科矯正学講座の大学院には入れませんでした。私は岩手医科大学出身でしたので、北海道大学の学生が優先だったのです。医員という立場で残り、翌年、院生になることを目指しながら、矯正の勉強をしていました。
この時は、「医員」というのが非常に中途半端な立場で、本当にわずかながらの給料で働いていたので、生活は苦しかったです。ですから、この時はまだ、親に仕送りをしてもらっている状態でした。
そして、翌年、大学院に入るための試験を受けました。結果は不合格。英語がダメ、ということでした。しかし、助手として採用されて、矯正学講座に残ることができました。助手という立場になると、給与も出ますし、立場も保証されているので、「これで落ち着いて矯正を勉強できる」と思いました。
しかし、そんな私の安定した生活は長くは続きませんでした。この年の9月、私だけが急に教授室に呼ばれました。「何だろう?何か、悪いことでもしたのかな?」と思っていると、教授は「篠田くん、君、大学院に行きなさい」と言ったのです。私は目の前が真っ暗になりました。
助手という立場から、院生に戻るのです。私は懸命に断りましたが、その話を断れば、大学を辞めることになってしまいます。それでは、今までやってきたことが全て、無駄になってしまいます。私は止む無く、その話を受けることになりました。試験の結果、大学院の試験に合格、大学院へと入ることになったのです。ここまで2年間、私は大学院に入るために通常であれば、しない回り道を経験することになりました。
しかし、この経験がその後の人生に大きく役立つとは、この時は思ってませんでした。ただ、「何で、自分がこんな目に遭うんだろう」という気持ちでいっぱいでした。この空白の2年間を経験したことで、私は「他の人よりも完璧な歯列を作る」「あいつには負けない」という気持ちを強く持つようになったのです。
大学院に入って、4年間で何とか、論文を作り上げることができました。ここで、空白の2年間に培った燃える心に火がつきました。他の人がやっていない分野に挑戦したのです。他の人がやっていないので、誰も教えてくれないために、かなり苦労しました。何とか、自分なりに限界まで挑戦する中で、大学院を卒業し、歯学博士の学位をいただくことができました。
大学院卒業後、私は大学に助手という立場で再び残ることになりました。
しかし、大学の中で、1つ1つ、全てに関しておうかがいを立てなければいけないことが向いてなかったのかもしれません。「もっと、自分の望む治療を自由にやりたい!」という想いが次第に強くなっていき、2年半、大学に残ったあと開業することになりました。
「ぼくは三越の前で開業するのが夢なんです」という言葉が、うちの妻には強烈な印象だったらしいのですが、私はすっかり忘れていました。
私と妻はこの夢を形にするために、テナント探しに奔走しました。 「三越からワンブロック内」「ワンフロアー1テナント」「30坪程度」など、こだわりの末に行き着いたのが今のテナントでした。開業の半年前、母が脳梗塞で倒れ、母の看病もしながらの開業でしたので、かなり大変でした。
開業するまで、長い道のりがありました。現在、自分の望む治療を自由にやらせていただいております。
では、「自分の望む治療」の一部をご紹介します。→ しのだ矯正歯科のこだわり
